不急のプロジェクトをめぐる大人の事情
新型コロナウイルス対策ということで、不要不急の仕事を減らすという新たな仕事が追加されて忙しい今日この頃。
不急の仕事として、個人的に何とかしたいと考えているのが「システム再開発プロジェクト」。数年をかけて基幹システムの刷新をする社運をかけたプロジェクトで、もちろん不要ではないですが数年先のためのものだから今すぐ必要ではないわけです。
プロジェクトに関わるのは発注先を含めれば数百人規模。休止しても通常の事業には支障なし。実現すればたくさんの人が移動や会議をせずに済みます。
しかしながら、事ははそう単純には進みません。
「確かにこの状況で無理に進めなくてもよいプロジェクトです。ただ、そちらは不急の仕事かもしれないが、当方にはこれが毎日の仕事であり休めばおまんま食いあげです。休止するというならば相応の補償をしてもらいます。」
受注者側の立場からすれば、要するに「休止しても仕事とみなしてお金をずっと払い続けてくれるなら休む」というわけです。
発注者側としては何も進まないのにお金をだけわ払ったらプロジェクトは予算オーバー。コロナ影響で業績も落ちた状況では、資金垂れ流しの休止をするくらいならプロジェクトをいっそ中止とする他ないでしょう。
現場の担当者は互いに「今無理にやらなくてもいいのに」と思っているが、休止ができない。ここに「コスト負担」という大人の事情があるわけです。
互いにジレンマを抱えつつ、結局「リモートのやりとりで感染リスクを最小化する」ことで、プロジェクトは我慢くらべの状態で続行されることになりました。
自粛のコストは引き金を引いた人が負担することに。
先日は「再三の自粛要請」を無視して、さいたまスーパーアリーナで開催されたK1が話題となりました。
参加した観客は6,500人ほど。事態が深刻なスペインでは世界女性デーのイベントが爆発的感染の引き金になったと言われています。感染者として顕在化するのは2週間ほどのタイムラグがでるそうですので、これが「終りのはじまり」になるのかどうかはいずれ分かることでしょう。
本件では自粛要請に耳を貸さなかった主催者がかなり叩かれていましたが、そもそも自粛は誰がすべきなのでしょうか。
- 主催元が開催しない
- 出場者が参加しない
- 会場を使用させない
- 観客が見に行かない
これらのいずれかが「自粛」をすれば効果は得られます。
観客もチケットを捨てれば自粛することができます。
埼玉県知事は自らの自粛要請にも応じずK1が開催されたことに対して「残念」だという表現をしましたが、「さいたまスーパーアリーナを使用させない」選択もあったわけです。ただもちろんそんな強権を発動した場合には、相応の損害の負担をすることになります。
結局のところ、いずれの選択も自粛の行動を起こした人が基本的にコストを負担することになるわけですね。
「誰しも適切ではないと思っている。しかしコストは負担したくない。」このようにして関係者による自粛をめぐっての駆け引きが行われるわけです。K1の場合は経済的損失に誰も応じることなく交渉が不成立となりました。
このような大人の駆け引きのもうひとつの事例が2020東京オリンピックです。ようやく延期という結論になりました。
「オリンピックの開催を強行するなんて政府はけしからん」「各所に自粛を要請するのに東京オリンピックはやるのか」との批判がずっと飛び交っていました。
オリンピックの主催者はあくまでIOCで、日本は会場の提供者。そのような立場である日本が自ら不開催を要請すると、これに伴う損害を世界中の関係各所から請求されることになります。
コロナウイルスの世界的流行を考えると、誰もが考えるように2020年の開催は現実的ではありません。しかしながら、それを日本が先んじて言えば莫大な損失を被ることに。開催続行という非常識ともいえるスタンスを続けてきたのは、国内外の批判を覚悟のうえのIOCに自ら言わせるためのギリギリの交渉だったわけです。
もともとIOCと開催国の間では、「問題が生じている場合にはIOCは無保障で開催中止できる」という不平等条約が取り交わされいます。
今回「無条件中止」という強力なカードをもっているIOCから、自ら「延期」というカードを引き出して中止の経済損失を回避した日本。道徳的な観点は別にすると大人の交渉の面では成功したといえるかもしれません。
自己の経済的損失を「自粛」という当事者のモラル任せでは限界。
あなたはダンプの運転手。狭い山道の下り坂を運転していると突然ブレーキがきかなくなりました。道の先には横断しているお年寄りの集団がいます。このままでは衝突は避けられません。
道には避けられるスペースはなし。ハンドルをきってガードレールをつき破り崖の下に落ちれば衝突は避けられますが、自分は大怪我です。
と、こんな状況に陥ったときに人はどんな行動をとるでしょうか。道徳的ジレンマの「トロッコ問題」ような事例ですね。
トロッコ問題では「5人を救うために見知らぬ1人を犠牲にするか」がテーマですが、今回の新型コロナによる自粛は「見知らぬ多数を死に至らしめるリスクと自分の経済的損失」がてんびんにかけられます。
自分の損失は明確ですが、相手に与える損失は不明確。個人の「自粛」に任せると「自分の損失の回避」のために
- もしかしたらぶつからないかもしれない
- ぶつかっても擦り傷で済むかもしれない
- 運転技術で何とかなるかもしれない。
- お年寄りよりも若くて将来ある自分が大事
という判断が行われることが容易に推察されます。
社会にとって全体最適となる判断がなされるためには、当事者のモラルに丸投げする「自粛要請」ではなく、政府のような当事者の利害を超越した存在による公正な観点での規律化が必要ではないかと思います。