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萩生田文科相発言の「身の丈」に収まっていたら、まともに大学進学なんてできるわけがない。

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大学入学共通テストに導入される英語民間試験に関する、萩生田大臣の「身の丈」発言が話題となっています。


民間試験の受験料を何度も負担できる裕福な家庭や、受験会場近郊の都市部の家庭が受験機会が多く有利という問題が指摘されてきましたが、これに対して、萩生田大臣は「『あいつ予備校通っててずるいよな』って言うのと同じ」「自分の身の丈に合わせて頑張ってもらえばよい」と一蹴したというものです。

多方面からの批判を浴びて陳謝する事態となり、野党は国会で追求する構え。もともと学校サイドからの問題提起も多かった今回の施策。トップの大臣が自ら炎上させたしまった結果、来年度の民間検定試験の導入はひとまず見送られることとなりました。

news.yahoo.co.jp

政治家の失言のひとつと言えばそれまでですが、私自身「身の丈」に苦しみ、そこからの脱出にもがいてきた立場からは、とても看過できない発言です。

下流家庭における「身の丈」での進学の難しさ

私の父は農家の次男坊として生まれ、中学卒業後は身ひとつで都市に出て、職人として生計を立てていました。

お世辞にも裕福とはいえない家庭。ひもじい思いをしたていたわけではなく生活はできていましたが、ゆとりはない生活です。わが家では自然と優先順位の低い支出には徹底してお金をかけない家計となっていました。

言うと驚かれますが、私は都市部に住んでいたのに大人になるまで以下の経験をしたことがありませんでした。

  • ホテルや旅館に泊まったことがない
  • デパートで買い物をしたことがない
  • ファミレスに行ったことがない
  • 映画館に行ったことがない
  • 飛行機に乗ったことがない


食べていく以外の余分なことという意味では、わが家では教育も同じ位置付け。塾や予備校などには一切通わせてくれないのはもちろんのこと、進学にも否定的でした。

「義務教育が終わるのに高校まで行く必要があるのか。農業高校で技能を身につけるならともかく普通科なんて無駄でしかない。」と、完全に父が育った農家の価値観での発言です。

「学費は義務教育じゃないんだから当然自己負担だ」というわけで、もちろん高校から奨学金は当たり前。私のクラスで高校から奨学金を受けるのは私だけ。慣れない手続きを頼んだ担任教師からは名前を憶えてもらえず「おい、奨学金」としばらく呼ばれていました。今考えるとなかなかひどい話ですね。

うちでは二言目には「学校は頭が悪いやつが行くもの」。近所に私大があったのですが、「あれはバカ大学だ。頭が悪い金持ちが行っているんだ。」確かに言われていつも騒いでいる学生たちを見るとそう見えました。その後に割とレベルの高い大学であったことを知ります。

そんな教育に否定的な家庭環境で育った私が「なぜ大学まで進学できたのか?」と問われると、努力してきたというより「親に反発していたから」と言う他ありません。

真面目に働く両親のことは尊敬していましたが、教育面の価値観だけは納得していませんでした。学がないことを屁理屈で正当化し自分の生きてきた世界を子にも求める。そんな姿勢に違和感を感じており、親への反抗の一心で私は進学を選択しました。

ただ、そんな私の選択も両親は簡単に許してはくれません。「働きたくないからそんなこと言ってるのか!」という反応。それでも親と「出て行く出て行かない」の喧嘩をした挙句、大学へ進学する許可を勝ち取りました。ただし「自宅から近い国立大学」「他大学との併願不可」「落ちれば就職」の条件付き。

「受かれば学校の実績にもなるし東京の大学もいくつか受けてみてくれよ」と学校からは言わましたが、親との約束なのでどうしようもありません。

チャンスは一回きりで落ちたら終わり。「どうしてこんな不利な受験をしないといけないのか」と自分の家庭環境を呪ったものでした。数百万の奨学金を背負っての社会人スタートよりも、進学において選択肢がないことが何倍もつらかったです。

奨学金は所詮借金。返してしまえばなかったものとなります。家庭環境を引きずっているようで嫌だったので、社会に出てからはがんばって10年ほどで前倒返済しました。でも「あの時行きたい学校に行けていたら自分の人生は変わっていたのでは?」という「たらればの呪い」は私のなかで長く続きこじらせます。最終的に、今の人生の選択肢だからこそ得られた「家族」という幸せを得られるまで、この呪いは解けませんでした。


下流家庭では、家計における経済力もさることながら、経済的に余裕がないことに起因して「教育投資や進学に対して理解がない」家庭が多いこともハードルなんですよね。

タレントである北野武氏の母の「教育がないから貧乏なんだ」と、貧しくも教育を重視してさきた話は有名ですが、そんな清貧を実践する家庭はレアケース。先立つものがなければ目先の生活で精一杯。うちのように将来へ向けた教育投資に目が向かない家庭が大半です。

今回問題となっている民間試験は、一回数千円から2万円強。裕福な家庭では何度も受けることができ、余裕がない(あるいはお金を振り向ける優先度がない)家庭は不利になります。

大学の授業料も私の頃からずいぶん上がっています。私が今の時代の学生だったら、大学に進学することはできなかったでしょう。

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家庭環境による格差は連鎖し自然に拡大する

私の弟は、小さい頃は私より成績がよかったのですが、私と違って素直だったせいで、親の意向にしたがい父と同じく中卒での職人の道を選びました。さらに弟の息子も高校を中退し働いています。子供は親の背中を見て育つので、素直な子ほど親と同じ道を選んでいくんですよね。

これを「身の丈」であるといえばそれまで。進学は別に偉いことではなく、自分の希望・選択での進路ならそれもよいのですが、進学の希望があってチャンスがないのはとても悲しい世界です。

東京大学に入学した学生の親の年収は950万円以上が半数と言われ、家庭環境は進学に大きく影響します。私の場合「アルバイトをして家計を助けないといけない」という状況ではなく、塾や予備校こそ通えませんでしたが勉強する時間はありました。家庭によっては「毎日家事をやらなければいけない」「兄弟姉妹の面倒をみないといけない」というところも。ハンデを背負ったうえで、恵まれた家庭の子と勝負するのは精神的にも大変なことでしょう。

高学歴の人は「学歴は努力だ」とよく言いますが、努力が学歴につながるためには「努力ができる環境がある」「努力が評価される環境にある」という同じスタートラインに立てることが前提です。


このブログで登場するボードゲームに、「カタン」や「宝石の煌き」で有名な「拡大再生産」というタイプのゲームがあります。収入が増えると新たな施設に投資ができ、それがさらなる収入増となるシステムです。デジタルゲームでいけば「桃太郎電鉄」などがイメージしやすいでしょう。

拡大再生産は達成感が高い一方で「いったん差が開くと逆転が困難」という構造的な課題があります。カタンであれば交渉、桃太郎電鉄であればキングボンビーなどの大災害で、ゲームシステムの補正をかけて逆転できる余地をつくっています。

www.boardgamepark.com
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実社会もゲームと似たようなもので、収入格差が教育格差となり、それがまた収入格差となり格差は連鎖していきます。資本主義の世の中で「結果の格差」はやむ得ないと思いますが、少なくとも「機会の格差」は社会システムの補正で小さくしないと格差は拡大する一方です。

そのような意味で、国民の教育を担務する大臣の「身の丈」発言は、「もともと多くの格差があるのだから、民間試験で一つや二つ増えても変わらない」という趣旨。本来果たすべき格差の補正ではなく、格差の連鎖・拡大の容認と解釈できる悲しい発言でした。

第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

憲法における教育を受ける権利は、「経済力に応じて」ではなく「能力に応じて」です。「身の丈」ではなく、教育を求める人に等しく機会が与えられる社会に少しでも近づくことを切に願います。